雪入ふれあいの里公園

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 雪入山の自然と暮らしにまつわるあれこれを紹介します。
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 【あ行】
アワコガネギク (あわこがねぎく)
 
キク科キク属の多年生草本。最近の図鑑ではキクタニギクの名で掲載されている。11月、茎先に小さな黄色い花を群生し、華やか。茨城県南部ではあまり多くない植物で、雪入ふれあいの里公園内の群生は大切にしたい場所。小菊の原種の一つと考えられている。
犬供養 (いぬくよう)
 
犬はお産が軽いというので、それにあやかろうという婦人たちが会食や仏事を行う風習。「ざく又塔婆」というY字形の木の枝を削り、経文などを書いて供養 (くよう)する。ざく又には各自白紙を結び、近くの三叉路(さんさろ)に立てる。懐妊した犬が死亡したときも、持ち主宅で同様の供養を行う習わしがある。 かつて町内で広く行われていたが、現在は上稲吉と馬立、上佐谷、雪入のみ。雪入では、3月の彼岸の行事。(参考:千代田村の民俗)
イノシシ (いのしし)
 
偶蹄目イノシシ科の哺乳類の総称で、本州ではニホンイノシシを指す。雑食性で嗅覚が鋭く、鼻の強い筋肉を使って地中のものを掘り出して食べることができる。小さな群れをつくって
朝夕や夜間に活動し、日中は休んでいることが多い。初夏に数子を出産し、縦縞もようから「瓜んぼ」(シマウリに似ている)と呼ばれる。泥浴びの習 慣があり「ぬた打ち」と呼ばれ、それを行う泥地を「ぬた場」という。家畜のブタはイノシシから選抜改良されたもの。山地の荒廃によりイノシシが餌を求めて 田畑を荒らすことがあり、有害駆除の対象や狩猟獣とされる。雪入地区でも有害駆除が行われている。捕殺された個体にイノブタの特徴を持つものが多いのは、 適正な個体数を保つにも、種の保全上も、この地域のイノシシに重大な事態が起こっていることを示している。
伊保田神社 (いぼたじんじゃ)
 
千代田町大字上佐谷字関戸脇にある古い神社。創建は不明で、イザナギノミコト、イザナミノミコトを祭神とする。管理者の藤崎氏に伝わるところによれば古くに筑波山から分神したもので、社殿は筑波山の方向を向いているという。
夫婦和合の神として、また「いぼ治し」の神として知られ、戦前はにぎわったという。「いぼ」のできた人が参詣し神前から小石を借り受け、毎日数回いぼをこ すると治るという。治った時には小石を数倍にして返すことになっている(千代田村の民俗)。奉納された小さな鳥居が社殿前に山積みとなって、社殿の周りに は無数の小石が散らばっている。真新しい石が納められているところを見ると、今でも誰かのいぼを治し続けているようだ。
ウラジロガシ (うらじろがし)
 
ブナ科コナラ属の常緑樹。シラカシに似るが、葉の裏が粉をふいたように白くなるのですぐに区別できる。また、花が咲いてから果実(どんぐり)が実るのに2 年かかるのが特徴。小枝の皮がシラカシのように黒っぽくならず、材としてはシラカシに変るところはない。西日本の山地では多い木だが、このあたりでは比較 的希である。 いぼた神社に大木がある。

 【か行】
柿畑 (かきばたけ)
 
柿はカキノキ科カキノキ属の落葉高木で、果樹として栽培される。山地に自生する原種のヤマガキの果実にはタンニンを含み渋い。果実の大きい園芸品種には、 渋を抜いて利用する加工用の渋柿品種、突然変異の渋の無い物が選抜淘汰された甘柿品種とがある。千代田町内でも上佐谷・雪入地区は甘柿の栽培が盛ん。秋は 西村(10月上旬)、松本(10月下旬〜11月中旬)、富有(11月中旬〜12月上旬)の各品種が、秋の実りのフィナーレを飾る。
果樹のふるさと (かじゅのふるさと)
 
千代田町は果樹の栽培が盛んで、クリ、ナシ、カキは生産量が多い。また、果樹を利用した観光果樹園も盛ん。雪入山の麓でもカキ、ナシ、ブドウ、ウメ、リンゴが栽培され、自家用にミカン、スモモ、ビワなどが栽培される。かつて雪入ではモモやミカンが栽培され出荷されていた。
戦前からクリの栽培が盛んであったが、現在にみるように盛んになったのは、桑や茶の代替作物として果樹が普及したことにもよる。表題の「果樹のふるさと」 は平成5年頃まで当時の千代田村のキャッチフレーズとして盛んに使われていたもの。果樹の栽培が盛んなことを表していただけでなく、果樹の苗の生産が盛ん なことも表している。特にリンゴの苗の生産は特筆すべきもので、全国一の生産量がある。千代田産の苗が、青森や長野のリンゴ産地を支えている。
茅仲間 (かやなかま)
 
かや場毎に、共同所有者による「茅仲間」呼ばれる管理組織を作っていた。茅仲間の間で、毎年10月にその年のかやの利用者を決め、12月中旬に刈り取りを 行い、早春の火入れも総出で行った。その他、この茅仲間の間で、刈り取りや屋根ふき工事を相互互助する仕組みであった。かや場がなくなると、茅仲間の互助 制度も失われた。(参考:千代田村の民俗)
茅場 (かやば)
 
採石前の雪入山には2個所の「かや場」があった。かや場は屋根ふきや農作業、馬の飼い葉に欠かせないススキを生産する土地で、8町歩を22人、4町歩を 17人で所有する、雪入集落の入会(いりあい)地(共同所有地)であった。毎年冬の刈り取り、早春の火入れ(残ったかやなどを燃やして、かん木などが生え て来るのを防ぎ、また、燃やすことで地味をやせたまま保ち、生え揃った丈夫なかやを育てる)などを総出で行い、かや場を維持してきた。町内には、雪入のほ か、上志筑、中志筑、下志筑、上稲吉、大峰、横堀、東野寺などにかや場があった。
農村の生活も近代化して、かやの必要がなくなるにつれ、売却したり、植林したりしてかや場は消滅した。雪入ふれあいの里公園のススキ原は、採石後の復旧で 生えたものとはいえ、かや場の景観を伝えるものである。公園の西側には、20年以上手入れがされぬまま放置されている荒れ果てたかや場跡が、今なお残され ている。
金命水 (きんめいすい)
 
千代田町大字上佐谷(かみさや)地内の字青木葉山(あきばやま)にある個人所有の湧水につけられた名称。林道上佐谷青木葉線沿いの標高190m付近にあ り、石造りの水盤が据えてある。すぐ200m北側にも同じ個人所有の銀命水がある。林道の開通直後、おりしも名水ブームの中ラジオなどで取り上げられたの がきっかけで人気を博した。しかし、近年は水量も少なくなり水盤からパイプが外され、銀命水は枯れることも多い。周囲の山林の荒廃などが影響していると考 えられ、パイプ内で細菌が繁殖するなど水質も悪化している。採水者のマナーの悪さも目に余り、周囲には多量のごみの散乱が見られる。こういうことをする御 仁には、いかに水が清くともその水の清さは絶対にわかっていないはずである。よほど自然環境のいいところ以外では、ここに限らず山中での生水を飲用とする ことは慎みたい。しかし、山で冷たい水で顔を洗い、漱ぐことは実に爽快なことである。
郷倉 (ごうくら)
 
志筑(しづく)藩時代に作られた米の備蓄倉庫。木造茅葺きで、2間3間の大きさ。主に凶作に備えての穀物の貯蔵が目的。志筑藩は、領内の年貢の40分の1 をで納めさせ、凶作の年に無利息で貸し出す制度を文化9年(1812)に設けた(義倉の制)。この制度により藩内各村に郷倉が建てられたが、現存はこの雪 入と大峰のみ。昭和48年8月当時村文化財指定。管理者、雪入区。(参考:千代田村の文化財)
庚申講 (こうしんこう)
 
中国の道教思想では、庚申の日の夜に三尸(さんし)という虫が体内から抜け出し、天帝にその人の罪過を告げて死期を早められてしまう、と考えられている。 これを妨げるため一晩眠らずに過ごし、朝日を拝む。日待講とも言う。江戸時代に修験者が民衆に広め、更に神社や寺で猿田彦神や青面金剛菩薩をまつって庚申 信仰が広められた。雪入では各戸巡周りで十干の庚(かのえ)の日と十二支の申(さる)の日に行っていた。庚申が同じになるのは60日に1回。会費を積み立 てて、庚申の掛け軸を前に皆で飲み食いをしていた。雪入では今は行われない。十五社神社の本殿東側に庚申塔と庚申塚がある。庚申塚は村や茅場などの境にも 築かれた。(千代田村の民俗、雪入の研究)
五輪塔 (ごりんとう)
 

 【さ行】
砕石場 (さいせきじょう)
 
雪入の入会(いりあい)地(共同所有地)に昭和43年(1968)相次いで二社により二つの砕石場が操業を始め、その後昭和54年(1979)に中止し た。操業停止後、入会地に返還され、土砂災害を防止の目的で、砕石場跡地の緑化や砂防ダムの建設が行われた。裸になった斜面にススキやクズ、マツ、スギ、 ヒノキなどを植えたが、土がまったくない斜面ではススキやクズ、マツ以外はほとんど育たなかった。約20年の歳月を経ても、一度壊された自然はなかなか回 復することができない。近年「マツ枯れ」が目立ってきたが、一方バラの仲間や、アカメガシワ、ニワトコ、タラノキ、キブシなどの(森林後まっ先に生えてく る樹木)が増えてきており、森林化への歩みは始まっている。砕石場操業中に日本新産の鉱物が15種類ほど発見され注目された。
さな振り (さなぶり)
 
雪入では、集落の田植えが終わると、区長が「そうじまい」のふれを出し、あんころ餅をつくって「植え上げ」を祝った。このそうじまいのふれはほとんど出る ことがなく、小麦の収穫後の始末が終わると、日を定めて「さなぶり」のふれが出て、その日は農作業を休んで、必ずうどんを食べた。かつて、町内各地で様々 な形で、植え上げやさなぶりが行われていたが、兼業農家が増えた現在、これらの習慣はなくなっていった。(参考:千代田村の民俗、雪入の研究)
山菜 (さんさい)
 
山菜は、広義には食べる事ができる野生植物の総称、狭義には比較的味が良く補助的に食事に供される野草や木の芽、である。かつては、生活の必要部分に含ま れていたが、現在は習慣的、レジャー的利用にとどまっている。人類誕生以来食べつづけた山菜は、近世になっても利用は続き、中には飢饉のときの非常食とし て利用したものもあった。江戸時代に志筑藩家老横手郭応が記した、天保の飢饉に対処するための対策書「救餓録」の中に、クズ粉、ワラビ粉、ゼンマイ餅、イ ノデ、オニユリ、ツリガネニンジン、ナズナ、オケラの根、ヨモギの葉、ウド、ウツボグサ、カラスウリ根、ホドの根、トコロの根など、冬に得られる山菜や救 荒植物の名がある。ほかにドクゼリと、そのほか冬に見られない6種の毒草があることも記してある。(参考:千代田村の民俗)
拾光寺観音 (じっこうじかんのん)
 
千代田町大字雪入地内字拾光寺にある石造りの十一面観音菩薩像。寛保3年癸亥年(1743年)石塚次郎左ェ門之建と刻まれている。拾光寺という寺があった 記録はないが、上方に平らなところがあり山崩れの時に古銭が流出したことがあった。一説によると中志筑の雲集寺が元は雪入にあって山火事で焼け落ちたと伝 えられている。しかし、その寺跡の所在は定かでない。(千代田風土記、雪入の研究)
拾五社神社 (じゅうごしゃじんじゃ)
 
雪入集落の中心にある神社。地元では明神様とも呼ばれる。創建は不明で、すでに江戸時代には記録がある。社号は十五神を祭ることによる。三体の仏像も伝 わっている。12月15日に祭礼があって、「オバンズくみ」の儀式(ナリ沢から水をくみ、神田で採れた米で甘酒を作る神事)や振る舞いが、かつては盛大に 行われた。西側の「明ルイ村スポーツ公園」は神社の持田の跡地である。社殿の後ろにある4本の木製の筒は筒で、爆裂防止のための竹タガが巻いてある。大正 10年頃まで秋祭りの奉納花火の打ち上げに用いていた。近郷近在の見物客で大賑わいをしたという。(参考:千代田村の民俗、千代田の民具)
十三塚 (じゅうさんつか)
 
雪入の一小字名。雪入集落の東はずれから山に登って行く道沿いの地区。集落を見下ろす馬の背のような高台で、常緑樹の大木に覆われた、独特の雰囲気を持つ 場所である。うっそうとした木立の中に墓石や大小のが点在し、地名の由来になった塚のいくつかが見つけられる。墓石は古いものが多く、山の中には多数の五 輪塔の破片が散乱している。東の谷に沿って堂帰、堂左、大五輪等の小字があることからも、寺院跡の存在がうがえる。十三塚という地名は、千代田町内に は、、新治にあり、県内では100を超えるといわれる。十三の塚は供養のため築かれた遺構で、各地にはいろいろな伝承がある。雪入では特に何も伝えられて いないようである。(参考:千代田村の民俗、雪入の研究)
篠竹 (しのだけ)
 
イネ科メダケ属の多年生常緑笹のアズマネザサ(東根笹)のこと。関東地方でシノ竹といえば、これを指す。放置した雑木林の林床を埋め尽くす厄介ものだが、 農作業用の支柱として重要。刈り取ることで繁茂を押さえ、また新しい良いを育てることができるので、雪入地区ではどこの山から、誰でもとってかまわない習 わしになっている。
炭焼き (すみやき)
 
木炭を作る炭焼きは、かつて山村の重要な現金収入源であった。また、養蚕や茶栽培が盛んだったこの地方では、養蚕用の暖房や製茶用の熱源として木炭は欠か すことができなかった。炭焼きの釜は煙とにおいが出るため、あまり人家から近くない所に築かれた。釜を築くときはまず斜面に長径3mほどの卵型の溝を掘 り、砂混じりの粘土を入れてつき固める。その内側の土を掘り出して掘り出して約60cmに切った木をぎっしり立ててその上に木や枝をかまぼこ型土を掘り、 約60cmに切った木をぎっしり立てて、上に枝などをかまぼこ型に積んでその上に粘土をつき固めた。卵の尖った方を焚き口にして反対側に煙突をつける。き 口に小枝を燃やして中の木に充分火がまわったところで煙突を倒し、そして焚き口を密閉する。いつ閉じるかを煙の色で判断するので、経験とカンが物をいっ た。火がまわるまで8時間、中の木が炭化するまで3日かかる。火が入った釜は焼き締められて丈夫になり、時々使うことで維持することができる。原料は、ク ヌギやコナラ、カシ類が良く、ウメ、サクラ、マツ、クリも使われた。最近は竹を焼くこともある。焼きあがった炭は4貫目(約15kg)ずつ俵に詰められ、 一回の炭焼きで12俵くらいになった。煙から木酢酸を回収することもある。千代田町では現在も上佐谷、上志筑、新治で炭が焼かれており、立ち上る煙とその 香りが炭焼きの存在を教えてくれる。(参考:千代田村の民俗)
浅間神社行屋跡 (せんげんじんじゃぎょうやあと)
 
大字上佐谷字行屋の浅間神社のおこもり小屋があったと伝えられる場所。浅間神社は千代田町上佐谷と八郷町にまたがる浅間山にある神社で、かつて上佐谷と弓 弦の共催で祭礼を行っていた。祭礼が近づくと集落の若者が小屋にこもって精進(しょうじん)を行い、6月1日の朝を迎えると白装束に身を固め、「六根清浄 (ろっこんしょうじょう)」と唱えながら浅間山に登り祭りを行った。奉納相撲があったほどにぎわったといわれている。しかし、上佐谷-弓弦間の境界争いが 起こり、神社の宝塔は上佐谷稲荷山に移され、それから祭は行われなくなった(千代田村の民俗)。今は弓弦集落により石塔だけの神社が守られているが、かつ ての賑わいを知ることはできない。
関戸瓦窯跡 (せきどがようせき)
 
千代田町上佐谷字関戸にある瓦窯跡。昭和48年9月町指定文化財。管理者は藤崎行雄氏(千代田村の文化財)。窯跡に赤く焼けた粘土で作られた窯の壁が残 り、周囲には布目瓦の破片が散らばっている。藤崎氏によれば、水田を拡張の際に発見され、当時多数の瓦の破片が出土した。瓦窯跡は登り窯形式で情報に当た る屋敷の庭には煙突と思われる跡があるという。
千代田町西部の山麓には厚い粘土層が発達し、また、国府(石岡)に近いこともあって平安期には多数の瓦窯が築かれた。町内には上佐谷二タ又、中志筑・下志筑境の高仏などに知られている。
ソメイヨシノ (そめいよしの)
 
バラ科サクラ属の落葉高木。広く栽培される園芸用のサクラ。野生種のエドヒガンとオオシマザクラの雑種といわれる。一重のサクラといえばほとんどソメイヨ シノをさすほどだが、この種類が世に広く知られたのは明治以降で、葉が出る前に淡紅色の花をぎっしりつけるので好まれ、以後急速に広まった。それまでのサ クラの名所はほとんどヤマザクラであった。江戸時代末期に「吉野桜」として初めに売り出した植木屋があった染井(そめい)村(現在の東京都豊島区駒込)と ヤマザクラの名所吉野山に由来し、明治5年に命名された。(参考:原色牧野植物大図鑑)

 【た行】
大五輪遺跡 (だいごりんいせき)
 
大字雪入字大五輪にある遺跡。奈良平安期の土師器が畑に散布している。字名の由来になった古い五輪塔が北西の林の中にある。
太子堂 (たいしどう)
 
千代田町上佐谷字山内にある聖徳太子をまつる建物。所有者の山内庄兵衛氏によれば、かつては聖徳太子像が何体か納められていたという。
聖徳太子は、あの有名な飛鳥時代の政治家、聖徳太子のことで、いつの頃から職人の守り神としてまつられるようになった。正月と9月の22日に、「太子講」 と称して聖徳太子像を飾ってお祭りをし、大工、左官、木挽、石工などの職人が集まって、仕事や賃金の相談をしたり、酒宴を行っていた(千代田村の民俗)。
太子堂の五輪塔 (たいしどうのごりんとう)
 
大字上佐谷の太子堂にある花崗岩作りの2基の五輪塔。大きいほうは高さ2.2mで、慶長16年(1611年)10月の日付が刻まれている。五輪塔には、仏 教世界の思想をあらわす、上から空輪、風輪、火輪、水輪、地輪の五つの石が積まれており、生前に功徳を積むために造営された。昭和38年8月県文化財指 定。管理者、山内庄兵衛氏。町内には五輪塔が多く、堂前・山本(県指定)、上志筑・中佐谷(町指定)のほか、小さなものまで入れると数が知れない。(参 考:千代田村の文化財)
筑波共同試験林 (つくばきょうどうしけんりん)
 
農林省森林総合研究所と林野庁茨城森林管理署の共同利用なる実験林。古くから「官林」と呼ばれている地域の一部。森林の技術・科学に関する様々な実験、研 究が行われており、森林内への立ち入りや採集は禁止されている。雪入山の稜線北側のコナラ大径木やリョウブ、モミの混じる雑木林は学術上も重要。森林総合 研究所は上志筑に分場と圃場(ほじょう)を持つ。
天狗巣病 (てんぐすびょう)
 
天狗巣病菌が寄生することによって生ずる樹形の異常現象。天狗巣病にかかった枝は細かい枝が密生し、花が咲かず、毎年だんだん大きくなる。天狗巣病菌は、 子嚢(しのう)菌門または真菌門担子(たんし)菌亜門つまり、ヒラタケやチャワンタケのようなきのこの親戚に属する菌で、サクラに寄生するのは担子菌亜門 類に属する。葉の裏にサクラ天狗巣病菌の繁殖器官を形成し、胞子(ほうし)が成熟すると、白い粉をふいたようになる。天狗巣の部分は古くなると枯死する。 防除は難しく、発生したらその枝を切除するしかない。ソメイヨシノは天狗巣病にかかりやすいが、ヤマザクラにはその害がほとんどない。

 【な行】
成沢のヤマザクラ (なるさわのやまざくら)
 
雪入集落の西、字保沢(なるさわ)の雪入川源流部付近の雪入山南面14.5haに、数百本以上といわれるヤマザクラ自生林がある。雪入山のヤマザクラに は、数種の品種があるため、他の山より花期が長い特徴がある。ソメイヨシノから10日ほど遅れて、4月中頃が見頃。雪入集落の入り口や中央青年の家から仰 ぎ見ることができる。近くに行って眺めるには、山道を少々登らなくてはならない。坂がきついところもあるが、中央青年の家のハイキングコースとして維持さ れているので、歩きにくいところはない。成沢に限らず、このあたり一帯の山ではたくさんのヤマザクラが自生し、春に彩りを添える。昭和48年笠間営林署風 致保護林に指定、平成元年茨城の自然100選選定。(参考:茨城の自然百選、千代田村の文化財)
二十三夜講 (にじゅうさんやこう)
 
旧暦の23日に集まり、月の出を待ってそれを拝むと、いろいろな御利益を授かるという信仰。起源は良く分かっていない。庚申講のように飲み食いしながら月 の出を待った。また、勢至(せいし)菩薩の像や二十三夜の文字を刻んだ供養塔が立てられる。(千代田村の民俗、雪入の研究)

 【は行】
ホルンフェルス (ほるんふぇるす)
 
の総称。岩石が地下で高温のマグマの熱影響を受け、溶けることなく結晶化し結晶質の岩石になったもの。狭義には砂岩や泥岩起源の岩石を指す。特定の方向に 割れる性質が著しくないので、圧縮、摩滅(まめつ)強度が高く、採石や割栗石といった土木建築資材に利用される。ホルンフェルスの名称はドイツ語で「つの 岩」の意味で、角ばって割れる姿に由来する。雪入山の2個所の大きな採石所ではこの岩石を砕石用に採掘していた。山の中腹より下では、このホルンフェルス を形成した熱源の花崗岩を見ることができる。ホルンフェルスは風化により崩れにくく、ホルンフェルスの分布地になると急に地形がしくになる。雪入地区では ホルンフェルスの分布地との分布地とでの地形の差が著しく、ホルンフェルスの分布地が切り立つ教科書的な差別侵食地形を見ることができる。

 【ま行】
マダケ (まだけ)
 
イネ科マダケ属の多年生常緑竹。中国原産で、古い時代に日本に入った。モウソウチクとは節のところの環の数で見分ける(マダケは2本、モウソウチクは1 本)。様々な竹製品の材料とされ、尺八もこれで作る。また、軽くて丈夫な骨材として、建築や農作業に欠かせなかった。初夏に出る筍は、「まちく」と称され て食べられる。屋敷の近くに植えてこれらに利用し、また竹材を売ることで収入源にもなった。千代田産のマダケは太くて長いものが得られるので、霞ヶ浦の帆 引き船の帆柱として重宝されたという(モウソウチクでは重過ぎてしまう)。
猛禽類 (もうきんるい)
 
「禽」とは難しい字だが鳥のこと。猛きん類は昆虫より大きな動物を捕らえて食べる陸の鳥の総称で、ワシタカ類、フクロウ類、モズ類。大きいものは翼を広げ ると2mを越えるオオワシから、体の長さ20cmしかないモズまでいる。共通した特徴は先がかぎ状に曲がった太く短い丈夫なくちばしと、大きな爪がついた がっちりした足。しっかりした翼。獲物をがっちり捕まえて引き裂いて食べる生態から体の形が類似している。外見のどう猛さとは裏腹に、タカが捕まえた獲物 を食べる前に、はねを一本一本丁寧に抜いてから食べるというような器用さある。食物連鎖で上位に位置する猛きん類が多数生息するのはそれだけ獲物が豊富と いうことで、自然の豊かさの指標になる。
雪入山は比較的雑木林が残るなど豊かな自然があり、崖地もあるため猛きん類をよく目撃する。トビ、ノスリ、オオタカ、ハイタカ、ハヤブサ、ツミ、サシバ、フクロウ、オオコノハズク、モズなどわかっているだけで10種に達する。

 【や行】
ヤドリギ (やどりぎ)
 
ヤドリギ科ヤドリキ属の常緑低木。地面からは決して生えることはなく、クリ、ケヤキ、ナラなどの落葉樹の枝や幹から生える寄生植物。冬に実る黄色の果実は 美しい。果実は粘り、レンジャクなどの鳥に食べられ、糞に混じった種子が枝に粘りついて発芽する。根は材の中に食い込み、宿主から水分や栄養分を摂取する が、自分で光合成も行う。枝は折れやすい。古来生命の象徴とされた。実が橙色に実る品種は、アカミヤドリギ。茨城県北部以北ではめずらしい植物ではない が、県南部の分布は希。雪入では集落の西部にある1本のケヤキの大木のみに見ることができる。(公園から歩いて15分)
雪入 (ゆきいり)
 
千代田町の最も西に位置する大字。面積195ha、人口189人44世帯(1998年2月現在)。幅の広い谷が山に抱かれて、盆地のような景観をなす。自 然環境が豊かな、千代田町の閑静な奥座敷。大化の改新で設けられた常陸国の筑波郡佐野(さや)郷に属し、古くから開けたところであった。気候は町の中でも 温暖で、上佐谷で霜が降りているのに雪入では霜が見られないということがある。北西に山を背負っているので、冬の冷たい季節風が吹き荒れることも少ない。 柿や梨、梅の栽培も盛ん。温暖な気候を生かしてみかん類の栽培が行われており、現在は自家用だがかつては出荷をしていたほどで、その味には定評がある。さ すがの果樹王国の千代田でも、みかんを実用的に栽培できるところは雪入以外では山本や上佐谷にわずかにあるだけ。枯れることがない沢水を活かし、美田から はたいへん良質の米が生産される。「ゆきいり」の語原については、広い谷が突然になくなって行き止まりになる地形を表したという説が有力。(参考:千代田 村史)
雪入山 (ゆきいりやま)
 
「雪入山」の名を持つ頂はない。千代田町の西部、雪入地区の背後にそびえるを通称「雪入山」と呼び慣わしてきた。ちょっと尖った上佐谷の浅間山の西、これ また通称「山」の西のから、朝日峠近くの通称「パラボラ山」までの一帯をさす。温暖な気候に適する植物が多く、茨城県を北限とする植物も少なくない。なだ らかな稜線には、かつて上志筑から筑波山まで続く山道があったが、表筑波有料道路の開通で分断されてからは、通る人も少ない。しかし、稜線の北側は農水省 森林総合研究所の研究林になっているため歩きやすくなっている。現在ネイチャーセンターから雪入山を一周するハイキング道を整備中。
雪入遺跡 (ゆきいりいせき)
 
雪入字中桜にある縄文時代の遺跡で、今のところ雪入最古。ネイチャーセンターのすぐ南側に当たる山腹の畑から、集落跡と縄文式土器が見つかった(千代田村遺跡分布地図地名表)。
雪入ふれあいの里公園 (ゆきいりふれあいのさとこうえん)
 
1997年4月に雪入山中腹に開設した千代田町営の公園。環境庁補助事業「ふるさといきものふれあいの里」として開設。所轄は商工観光課。森を模したジオ ラマ展示室や立体ハイビジョンシアターを備えたネイチャーセンターをはじめ、観察園路や観察舎、木道デッキ等が自然の中に配されている。散策や自然観察な ど、気軽に野外で自然と関わることのできる憩いの場を目指している。砕石場跡地の緑の再生、自然環境保全への取り組みのほか、自然を楽しむ催し物や地域の 自然調査、ボランティア育成を行っている。雄大な地平線を見ることができる日本でも数少ない場所として、密かに知られている。
雪入林道の桜並木 (ゆきいりりんどうのさくらなみき)
 
雪入山の中腹をぬうように作られた林道にはソメイヨシノの並木があり、周囲の山々のヤマザクラより一足早い春を告げる。雪入林道の開通は昭和30年頃のこ と、木材や材の運搬、かや場の管理に大いに活用された。砕石場の当時は路として、狭い山道をダンプがひしめく光景があった。桜は林道の開通当時に地元の人 たちによって植栽されたもので、樹齢約50年になろうという大木ぞろいである。しかし、近年クズの害や、天狗巣(てんぐす)病により痛みが目立っている。 そもそもソメイヨシノは60年ほどで樹勢が衰える性質があり、シダレザクラ(エドヒガンの品種)やヤマザクラにみるような巨木になりにくい。

 【ら行】
緑化樹 (りょっかじゅ)
 
街路樹や公園などの緑化に使われる樹木。管理が楽で丈夫な木が好まれ、代表はシラカシ。常緑樹が多いが紅葉が楽しめるトウカエデ、モミジバフウ、イチョウなどの落葉樹もある。千代田町から美野里町にかけては全国的に有名な産地。花木や果樹の苗木の生産も盛ん。

 【わ行】
ワラビ (わらび)
 
かつて雪入山にかや場があったころは、春先に出る一面のワラビもかや場の恵みであった。ススキの刈り取りや、火入れによって、ワラビの生育に絶好な明るい 草地が毎年維持される。冬の火入れによって整理された地面から伸びたワラビは、見つけやすく、採りやすい。太くておいしい雪入山のワラビは、村人の食卓を 賑わし、あるいは売って生活の足しとなった。採石によって表土が失われた現在、ワラビの発生量も激減し、ほんの少しのワラビの葉がススキの間にゆれるの が、その昔を偲ばせるだけである。